於母影草子


 思い出は、年月が経てば経つほどに美化されるものだ。
柔らかい絵筆に白い絵の具をたっぷりとつけて、塗りたくっていくように、大切な記憶は薄れ、やがて消えていく。写真を見ずに母の顔を思い出そうとするとき、僕の記憶は眼差しではなく、頭に優しく置かれたその手の暖かさを再生した。

 幼いころの僕はだいぶやんちゃもしたようだから、きっと、その同じ手で咎められたことも一度や二度ではないはずなのだ。けれどそれらの記憶は綺麗に払拭されて、蘇るのはただ、心地良い安らぎを与えてもらった記憶だった。

 写真の母はいつでも笑顔だ。当時流行っていたふわふわのパーマをかけた、落ち着いた琥珀色の肩までの髪。北国生まれの白い肌に、コーラルピンクのルージュを引いた、薄めの口唇。綻んだ口元からは八重歯が覗いている。ワインレッドのタートルニットを着て、その胸に小さな赤ん坊を抱いている。二十年前の僕だ。

 月日の流れは残酷なもので、写真の中の母はいつまで経っても変わらない姿なのに、僕だけこんなに大きくしてしまった。

 お前は母親似だな、親戚に会うたびに言われてもいまひとつぴんと来なかったのだけれど、こうして写真と向かい合っていると、いやでも自覚した。この写真の女性と自分の間に血のつながりがあることを。

 父は母の写真を僕の知らぬ間にほとんどどこかにしまってしまったから、僕が母の姿を見られるのはわずかにこの一枚の写真の中のみだった。この写真だって、父が出張の間に偶然見つけたもので、父に存在を知られてはいないだろう。都内の大学に進学し、今住む場所へと越してくるとき、少ない荷物の中にこの一枚を忍ばせてきた。
 記憶を手繰り寄せるには限界がある。忘れたくない面影を形にして残しておいてくれる写真は有難いものだった。



 幼いころの僕は、ハンバーグが大好きだった。
 子どもが好む味だと一笑に付してしまうのは簡単だが、それはきっと、特別に美味かったのだ。レストランに連れて行ってもらったとき、お子様ランチを頼み、その皿に乗っていたハンバーグを喜び勇んで口にした後、拍子抜けしたことは今でも覚えている。家で食べるハンバーグの味が好きだった。母の織り成す絶妙な味付けは、きっと誰にも真似できない。

 あれ以上の味には残念ながら未だお目にかかった試しがない。母がいなくなってから、我が家の食卓にハンバーグが上がることは無くなった。

 ―もう少し甘えておくべきだったのかもしれないと思う。
 風邪を引いたとき、幼稚園でとびきり上出来な絵を描いたとき、はしゃいだ拍子にコンクリートの地面に転んで膝を擦り剥いたとき、手を差し伸べ、頭を撫でて笑ってくれる存在に、もっともっと近づいておくのだった。そして、写真を見なくても思い出せるくらい、たくさんたくさんの母の表情を記憶しておけば良かった。

 色濃く残るのは喪失の想い。取り残された僕は、授業参観のときの、後ろを意識しながら朗読する気恥ずかしさを知ることは無かったし

、卒業式のあと校門の前で写真を撮ってもらう嬉しさも知ることは無かった。
寂しい、と感じる気持ちを克服しなければ僕は生きられなかっただろう。
 母との別れ以外にも、僕はいろいろな別れを経験してきた。
 けれどやはり、母との別れは僕にとって特別なものだった。
 
 あれからゆうに十年以上が経過した今でも、そう思う。いつまでもこの想いを抱えていては前に進むことは出来ない。だから、しばらくの間は母への想いを閉じ込めて、意識的に遠ざかっていたのかもしれない。「ボク、ママはどこかな?」公園が夕闇に支配されてもひとりでブランコを漕いでいた僕に親切そうに尋ねた警官にも、僕は首を振るだけで答えなかった。迎えに来てくれる人がいたら、とっくに帰っています。

 寂しいと感じていたのは、僕だけではないだろう。
 母を一刻も早く過去の存在にしたい、その想いは父の広い背中から伝わってきた。父は母に瓜二つで、母の血を引く唯一の存在である僕の姿を見るたび辛い思いをしていたのかもしれない。
 仕事だと言ってほとんど家を空けて帰らなかった父が、僕を挟んで母と並んで歩いていたことも、かすかではあるが覚えている。

 しかしそれももはや二度と見られない光景だった。父がそうしたように、僕は母への思いを封印して過ごしていた。
 変わったのは、母の写真を見つけてしまったからだ。眠っていた母への思慕の思いが一気に蘇ってしまった。

 東京という新しい環境への適応もそこそこ、僕は母の面影に縛られて過ごしていた。そうして、もう二年もの月日が経とうとしている。

 僕は大学に通っている。寝る間も惜しんで勉強して、やっと合格した第一志望の学部だったから、無駄に過ごすつもりはなかった。授業もちゃんと前の席に座って受けている。親しい友人は何人かいたし、今の生活に特に不満は感じていない。ただ、誰もいないマンションに帰るときを除いては。―寂しかった。だからこそ余計に母の面影にすがってしまうのかもしれなかった。

 今日も大学の授業を終え、夕飯の材料を最寄のスーパーで買いこんで帰宅した。テレビをつけなければ静寂に支配されるワンルームマンションの一室だ。蛍光灯をつけて野菜を冷蔵庫にしまい込んでいる途中で携帯が鳴った。その着信音は「彼女」からのものだった。僕は野菜をそのままにして、慌てて携帯の通話ボタンを押す。待たせるとあとがうるさい。

 「遅い。もう切っちゃおうかと思った。これからあんたんち行くから。じゃ。」

 極めて一方的な会話のあと、通話は終了。あんた、じゃなくてせめて名前で呼んでほしい。僕にはちゃんと「青山智仁(あおやま・ともひと)」という名前があるのだ。
 僕は放り出されていた郵便物を拾い上げて引き出しにしまい、入れ途中だった野菜を冷蔵庫に突っ込んだ。散らかしておくと、また文句を言われるからだ。和恵が来るまでの数十分で片付けておかなくてはならない。
 うるさいけれど、―寂しくは無くなる。寂しさを感じる暇を、あいつは与えてくれないのだ。

 国木田和恵(くにきだ・かずえ)は、僕の大学の同級生だ。文学部に入っている癖に読書が嫌いで、いつも僕にノートをせがんで来る不

 真面目な学生。そのくせ教授には受けがいい。要領のいいやつだ。

 声が大きくていつも何かにイライラしている。僕に声をかけたのも、イライラしたからだそうだ。全身から負のオーラが出てるわ、と。

 それが彼女の僕への評価で、それ以来頼みもしないのに付きまとっては世話を焼いてくる。学校帰りに、携帯電話に、「今日、あんたんち行くから」と一言。有無を言わさず僕の家に上がりこんでくる。友人に聞けば、彼女はたいそうモテるそうで(それも普段の彼女の様子を考えると信じられない話だ)、僕以外にいくらでも相手になる男はいるだろうに、僕に構うのをやめようとしない。

 おかしな奴だ。おかげですっかり僕と彼女は「付き合っている」ことにされているが、断じてそんなことは無い。
 「あんた、またお母さんの写真見てたんでしょ。このマザコン!」容赦なく罵倒してくる。「…うるさい」抗議してもまた次から次へと文句を言ってくるだろうから、まともに相手をする気にもならない。    まったく、母の写真を飾っていることを、あいつに知られるべきではなかったのだ。
 出会ってすぐのころ―確か、二年生のゴールデンウィークが明けてすぐのころ、和恵が僕の家に初めてやってきたころに、無遠慮に彼女は部屋に置かれた写真を覗き込んできた。

 「何このすごい綺麗な人?あんたそっくりじゃない!」
 「母だ」
 「えー何?じゃあこの赤ちゃんもしかしてあんた?このまま育てば可愛かったのにね。ちゃんと笑ってるし。」
 「………」
 「こんなに綺麗なお母さんじゃ、地元に残してくるの寂しかったでしょ」
 彼女が人を褒めるのがなんだか奇妙な気がした。出会ってからはいつも誰かへの愚痴を聞かされていたから。
 「…もうだいぶ前に、亡くなったよ」

 そのときちょっとだけ、彼女がしおらしい表情を見せたことは忘れられない。

 数十分後、和恵は小さなビニール袋を下げてやってきた。いつも付き合いのある友人の家で、徹夜で飲み会をしてから、午後だけあった

 授業は爆睡して過ごし、それから家に帰らずにそのまま来たらしい。明るく脱色したショートカットの髪は乱れ、化粧も落ちている。僕のことを異性として意識したことはきっと無いんだろうと思う。少しは気をつかったらどうなんだろうか。

 「あんた、玉ねぎもう足りないってこのあいだ言ったでしょ。今日使い切っちゃったから明日買って来なさいよね」
 
 人の家の台所を勝手に使って、和恵が料理を始めた。いつものことだから何も言わない。和恵は実家暮らしで、大学に上がるまでは料理などからきしだったらしい。それなのに僕の家に上がりこむ度に何かしら料理を作っていく。最初は実験台のごとく焦げたハムエッグを食べさせられたりもした。しかし今はだいぶ上達したと思う。
 母には及ばないけれど、彼女のハンバーグは結構美味い。形はいびつだったが。
 今日のメニューもハンバーグだった。レパートリーが少ないからか、このところ同じメニューが繰り返されている。けれど飽きるほどではない。もう和恵の料理の味に馴染んでしまった。もしかすると、自分の料理よりも。
 母の作る料理も、当たり前のように味わっていたころは、いつかそれを食べることができなくなるなんて思いもしなかった。

 いつか、和恵が何かの事情でいなくなって、この家で料理をすることがなくなったら、和恵のことも思い出すことが難しくなる日が来るだろうか。
 
 和恵のハンバーグを口に含みながら考えた。ほろ苦い味が広がった。今日は少し失敗したようだ。焦げたところを僕に回したのだ、こいつは。僕の視線に気づいたらしい和恵がむっとしたような表情で身を乗り出してきた。

 「あんた、また後ろ向きなこと考えてるでしょ!」
 「…いや、そんなことは…」
 「わかんのよ、あんたの考えてることくらい。またお母さんのこと思い出してたんでしょ」
和恵の言葉には容赦が無い。
 「…お前には、関係ないだろう」
 「関係大有りよ!あんたが暗くしてるとあたしがイライラすんのよ。きっとお母さんも天国でイライラしてるわよ」
 「………」
 きつく描いた眉を吊り上げて和恵が睨み付ける。「もう、暗い話はおしまい。もっと前向きに生きなさい。あんたがあんまり暗いから、

今日はあたしが花を買ってきてやったのよ」
 「花?」
 「そ。ルピナス。枯らしたら承知しないからね!」
 先ほど持ってきたビニール袋から、和恵はそれを取り出した。
 和恵が乱暴にフローリングに降ろした鉢植えには、薄紫の房状の花が植えられていた。
 「…ちゃんと花屋で聞いてきたのよ。それの花言葉、『母性愛』なんだって」
 和恵に花言葉なんて、似つかわしくない。一瞬だけ失礼なことを思ってしまったけれど―。僕は改めて花を見つめた。その紫の花は生命力に溢れていた。「死」とは無縁な和恵と同じ。
 「あんたが死んじゃったり、具合悪くなって面倒見れなくなったらその花も枯れるわよ。だから、ちゃんと生きなさいよね。」
 僕が「母は亡くなった」と言ったときに黙り込んだ、それと同じ表情の和恵がそこにいた。普段のうるさい雰囲気が払拭された、少し寂

しそうな顔だ。
 「あたしも、お母さんいないよ。でも、毎日暗く生きてたら、せっかく生んでくれたお母さんに合わせる顔ないでしょ。そう思わない?思ったこと無いの?」
 「………」
 「もう、そこで黙んないで、ちゃんと言い返せるくらいになりなさいよ!…っほんと、イライラするんだから、あんた…」

 そう言い掛けた和恵を、僕は抱きしめていた。

 「ちょっと…いきなり何よ…何なのよ…」
 腕の中で、和恵がちょっとだけ小さな声で言った。暴れるかと思ったけれど、彼女はそうしなかった。僕が黙っていると、やがて彼女も

大人しくなった。

 暖かかった。

 写真の中で笑ったまま時を止めた母とは違う。和恵は生きて僕の腕の中に確かに存在していた。

 マザコンだとか、何と言われようと、構わなかった。
 そのとき僕は、和恵に在りし日の母の面影を重ねていた。

 おわり


 
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