さすらい人

 僕は「さすらい人」に対し、あまり良いイメージを持ってはいなかった。
 金を持て余した暇人、あるいは人生を諦めきった駄目人間、現実逃避をする変人―だいたいそんなもの。

 まっとうな生き方をしていない人たち。そうそう滅多に関わるような人種ではない。
 ちなみに僕の父は公務員である。厳格な父は、「さすらい人にだけはなるなよ。そして関わるな」

 僕がまだ小学校に上がる前、ほんの幼いころから口を酸っぱくして僕に言い聞かせた。
 僕はそんなものか、と思っていた。父の言葉以外に信じるものがなかった。そのころから。

 僕は冬休みになったばかりのその日、自分の部屋で朝からぼんやりと過ごしていた。いつになく退屈で、何もやることが思いつかなかった。仕方がないので山積みにされた本や、プリントの散乱した机の上を片付けようと試みたが、すぐに投げ出した。やる気が起きない。何もやることがない、しかし何かをやろうとすれば億劫な気持ちでいっぱいになる。面倒くさい。

 休みの日というのは、息抜きにはなるが、あまり続きすぎるとよくない。僕は駄目人間への一歩を踏み出す。
 喉が渇いた。僕は重たい腰を上げ、部屋を出た。今の気分にぴったりな飲み物が冷蔵庫に入っている、はずだ。
 台所の隅にある、古ぼけた冷蔵庫を開ける。何ともいえない臭いがこもっていた。目当ての飲み物を求めて視線を彷徨わせる。

 あいにく、豆乳は切れていた。

 母さんが、昨日の買い物のとき、あれほど頼んでおいたのにも関わらず買うのを忘れたようだ。
 僕は足踏みをする。飲めると思っていたものが飲めないと知れたときの落胆は筆舌につくしがたいものがある。僕の豆乳への渇望感、飢餓感は急激に増して行った。

 豆乳が飲みたい。そしてその欲望は、僕に今年一番の冷え込みを見せる屋外へと駆り立てる意欲を与えた。豆乳がないと僕は生きてはいけない。豆乳は僕の心と身体を潤してくれる。僕は豆乳を求めて、家から歩いて五分の所にあるコンビニエンスストアを目指した。

コンビ二は、豆乳の品揃えが少ないのが難点だ。
僕の好きな種類は一種類しかなかった。豆乳を四、五本と豆乳プリンを一つ、買い物籠に放り込み、レジに向かう。店員は口元にほのかな笑みを滲ませている。

 こいつには、顔を覚えられている。彼の脳内で、僕は豆乳マニアのおかしな少年、とでもインプットされているのだろう。確かに、十七歳という年でここまで豆乳に執着するやつも珍しいのかもしれない。だがしかし、それは人の好みというやつだ。他人にどうこう言われる筋合いはない。

 コンビ二を後にした。頭の中は、家に帰って豆乳を飲むことでいっぱいになっていた。早くこの喉の渇きを癒したい。気持ち、足取りも速くなる。吐き出す息は冷たく凍えた冬の空気の中で白くなっていた。
 しかし、僕の行く手は間もなく遮られた。

 前方に、男が一人うずくまっていた。

 白に近い、銀色に光るさらさらの髪を全て後ろに流し、どこか女性的な雰囲気を滲ませる美貌を備えた男。年は若そうだ。二十代半ばといったところだろうか。
 彼は青白い顔をゆっくりと僕の方へと向け、血の気を失った唇を動かして、言った。
 「き、君…」
 「はい。何でしょう」

 僕は本来あまり他人に関わらないたちなのだが、男のあまりに切実そうな様子に心を打たれて、応えた。
 「…な、何か、食べるものを、くれないかな。…もう三日も、まともなものを、口にしていないんだ」
 「それは大変ですね…僕、おやつの豆乳プリンしか持っていないんですけど、いいですか」
 「そ、それで十分だ…すまない、頼むよ」
 僕は男に豆乳プリンと、プラスチック製のスプーンを手渡した。男はむしゃぶりつくようにして、あっというまにプリンを平らげた。

 「…ありがとう。君は私の命の恩人だ」
 男はプリンを食べ終えた後、いくらか落ち着いた声でそう言い、頭を下げた。行き倒れになっている人に会ったのはこれが初めてだったけれど、何だかイメージを壊された気分だ。もっと、薄汚れているものだと思っていた。しかし目の前に居る彼は気品に溢れ、貴族的で、とても食物に困っているようには見えない。家出か何かだろうか?

 「さて。…命の危機を脱したことだし、私は旅を続けることにしよう」
 すっくと立ち上がり、男は銀髪をかき上げた。後ろに流した髪。何だかとても様になっている。
 「…旅?」
 僕はその言葉に惹かれ、尋ねた。男は頷き、誇らしげな顔をして、言った。

 「私は、さすらい人。失われつつあるオールバックの民を求めて、旅を続けているのだ」

 僕は幼いころ、父に言われた言葉を思い出した。「さすらい人には関わるな」

 さすらい人―現実世界から逸脱し、自らが夢中になれるものを貪欲に追い求め彷徨う人―父はそんな人の事を「ろくなものじゃない」と評したが、僕は心のどこかでそれに反発していたのかもしれない。さすらい人は、日常で決して会うことのない、禁忌の存在。しかしながら、常識に縛られない彼らの自由さに、僕は憧れを覚えた。父の前では言えなかった事だけれど。

 彼の言う「オールバックの民」とは何者なのだろうか?
 僕の知る「オールバック」は絶滅危惧種に指定されている、あの髪型である。髪を全て後ろに流した、頭皮に負担をかける危険なもの。…ああ、目の前にいる彼の髪型も…。
 男はかすかに笑って、背を向けた。「では」
 風になびく彼の後ろ髪がきらきらと光った。
 「…待って!」

 立ち止まった男に、僕は叫んだ。
 「僕も…僕もその旅に連れて行ってくれませんか」
 退屈な日々に、いい加減僕は新しい刺激を求めていた。
 「僕はかなおか金岡ケイゴ。よろしく」
 バスに乗っているとき、僕は彼に自己紹介をした。彼は自分の事を相変わらず「さすらい人」としか言わなかった。「さすらい人」ひと人さん、変わった名前を親からつけられたものだ。

 暫く雑談をしたあと、おもむろに彼が言った。
 「君はいい人だ」
 「え?」
 「私があそこで蹲っている間、沢山の人が傍を通りかかったが、皆私と目を合わせないようにして通り過ぎて行ったよ。君みたいに、親切に食べ物を恵んでくれるような人は他にいなかった」
 「………」
 それがまあ、当然のことなのかもしれない。今の時勢では、他人に関わることをなるべく避ける人間が大半だ。無関心、無感動…僕の周りの奴らもだいたいそうだ。面倒なことには関わらない。

 「困っているときは、お互い様です」
 僕が、変わっているのだ。そうに違いない。
 さすらい人は虚無的な笑みを浮かべて、言った。「そう思える君は、すごい」

 「…そうでしょうか」
 「何だか君と一緒なら、きっとオールバックの民が見つけられるような気がするよ」
 「…いつから旅をしているんですか?」
 「実はつい三日前からなんだ。ふと思い立ってね。旅の準備もろくにしないで来たもので、すぐに食料も金も底をついてしまった。隣町まで来ただけなのにね」
 「………」
 お互い様だ。
 僕も旅に出ると言ったはいいが、豆乳五本と、着古したトレーナー、ジャケット、ジーンズ、スニーカーというお粗末な装備で、とても長旅に出られる格好ではなかったのだから。

 その日、僕とさすらい人は日が暮れるまで歩き続けた。それでも町内を一丁目から四丁目まで一周したに過ぎない。オールバックは一人も見つからなかった。
 五本あった豆乳は残り一本になっていた。
 公園のベンチに座った。足は久々に歩いたせいで筋肉痛だ。ずきずきと疼いている。

 「…なあ、ケイゴ君」
 「はい」
 「残りの豆乳は、私にくれないかな」
 「何故です…」
 「君はまだ若い。私はもう二十八歳だ。老い先短いものにひもじい思いをさせないでくれ」
 「何を言ってるんです。これは、僕が買った豆乳です。それに僕は十七歳です。一生のうち限られた成長期に、栄養が不足したら、今後どんな害が生じるかわからないでしょう。年下に譲るべきです」
 「………」

 僕とさすらい人は睨み合った。半日、この人と過ごして分かったことといえば、この人が隣町の資産家の息子で、働きもせず毎日遊び暮らしていることを家族にとがめられた挙句家出して、それでは格好がつかないから、自分が好きな髪型「オールバック」を探す旅という大義名分をつけた。それだけのことらしいのだ。彼は歩いている間に洗いざらい話してしまった。

 最初のいやに感動的な出会いはなんだったのだろう。
 軽く失望を覚えたが、それもまあどうでもいい。刺激のある体験はできた。冷めていると自分でも思う。

 残りの一パックの豆乳のストローを抜き出し、差し込む。豆乳を思い切り吸い込む瞬間に、僕はたまらない快感を覚える。隣りでさすらい人、こう呼ぶのもなんだかおこがましいが、がうらめしそうな目つきでこちらを見ていた。家に帰ればいくらでも飲めるのだろうから、少しは我慢して欲しいものだ。



 「もう、終わりにしよう」
 「…え?」
 「もう、オールバックを探す必要はない」
 僕が豆乳を飲み干した後、暫くいじけていたさすらい人(いい加減、名前を教えて欲しい)はどこか陰りのある整った顔を僕の方へ向け、落ち着いた声で言った。
 「…あきらめたんですか?」
 「いいや」
 さすらい人は軽く首を振り、おもむろに自分のポケットからなにやら取り出した。それはべっこう鼈甲の櫛だった。
 「ちょっといいかい?」
 「…?…はい」
 僕はさすらい人に促されるまま、座った。さすらい人は僕の後ろに回った。僕は顔から血の気が引くのを感じた。嫌な予感がした。

 「……ちょっと。何してるんです」
 「…黙っていたまえ」
 さすらい人の有無を言わさぬ口調に僕は黙り込む。彼は、僕の髪を丁寧に梳かすと、片手に取った ポマードをがしがしと塗りつけた。

 「…これでいい」
 満足げな声が背後から聞こえた。僕はがっくりと首を垂れた。
 「気分はどうだい?」
 「…最悪です」
 彼が差し出した手鏡の中に、きっちりと整えられたオールバックの、僕の情けない顔が映っていた。

 オールバックの民を探す彼の旅は終わりを告げた。興味本位で彼に同行したことを、僕は心の底から後悔した。



おわり


>>top