いつか、私は。 「自分」を語る術を忘れてしまうかもしれない。 そうならないうちに、話しておこうと思う。 聞き上手 「だからね、あいつ、私の気持ち全然考えてくれないの、本当、今度こそ別れてやるんだから」 まるですぐ傍に、憎むべき対象の男が居るかの様な激しい口振りで、少女は自分の扱われ方の理不尽さを説いた。 午後の柔らかな日差しに照らされて、色素の薄い髪が黄金色に光っていた。 涙を擦ったせいか、きっちりと引かれていた筈のアイラインは滲み、丁寧に塗ったであろうマスカラは溶け出して、彼女の目の下に薄黒い隈を作っていた。 「うんうん、わかるわかる。早奈ちゃん、今まで散々我慢して来たもんね」 軽く彼女の肩を叩いて、安心させる様に微笑んで見せる。 「早奈ちゃんの事、そんなに泣かせる様なやつだったら、別れた方がいいかも知れないね」 彼女は黙っていた。 しかし、また少しすると、今度はひどく弱々しい口調で、 「でもね、でもね、この前ね、ちゃんと私の誕生日覚えててくれてね、新しいバッグ買ってくれたの。私、わかんなくなっちゃって…」 新しい涙は黒い筋になって彼女の頬を伝った。 「もっといっぱい会ってたいって、わがままなのかなあ…」 「そんな事、ないよ」 「―え?」 ちょっと上目遣いに此方を見てきた彼女に、やはり気持ち穏やかな声で言った。 「早奈ちゃんは、あんまり会えないのが悲しい位、その人が好きって事でしょ?」 「…うん」 「その人も早奈ちゃんの誕生日とか、大切な日はちゃんと覚えててくれて、会ってくれるんでしょ?仕事休んででも」 「…うん」 「…じゃあ、今はまだ別れなくても、いいんじゃないかな。早奈ちゃんも、そう思ってる筈だよ。早奈ちゃんの彼氏も」 「…そうかな?」 「うん、きっとそう」 また彼女に微笑みかけると、彼女は軽く目を擦って、言った。 「…考えてみる、ね」 清々しい顔になっていた。 ここに最初来た時とは別人の様に。 「ありがと、またね!」 彼女は微笑んで、軽く手を振ってから背を向けた。 彼女の新品の皮靴が小気味のいい音を立てた。 「また」はないな、きっと。 遠ざかる靴の音を名残惜しく聞きながら、そう思った。 私に構うのは、悩みを抱えている時だけ。 「不思議だね、あんたの前だとさ、何でも話せる気がするんだよね」 悩みを打ち明けてくる子のほとんどは、私にこんな事を言った。 ほんと助かった、ありがとう、感謝の言葉と、憑き物の落ちたような、 すがすがしい笑顔。それを残して、彼女達は私の前から去って行った。 普段はさして親しくも無い子たちだ。性格、容姿、属しているグループ、何の接点も無い子達。 けれど私のところに来る。 話を聞くのは悪い事ではない。普段は明るく、クラスのムードメイカーになっているような女子クラス委員長、先生に呼び出しを食らっても平然と無視する、校則違反を体現したような容姿の女子、成績優秀、スポーツ万能で模範的生徒として周囲からは絶賛の嵐の女子。 表には出さないけれど、彼女達は彼女達なりの悩みを抱えて、生活していた。話しているうち、涙を零してしまう子も少なくない。 そんな子達に、私は的確と言えるかどうかわからないアドバイスを送る。まるで小さな人生相談室。 カウンセラーの資格も持たない私が、無い頭を精一杯振り絞って考える解決の道。それが役に立っているのかはわからないけれど、とにかく、彼女達は私のところから去っていく。普段の生活に戻る。笑顔を振り撒く。 私は。 誰も居ない教室に入る。 席につく。 天井を見詰める。 私には、彼女達が抱えているような悩みなどありはしない。 落ち込んでいる時でも、周りを暗くしてはいけないと気を揉む彼女の、一人ぼっちで自分の部屋で泣く悲しみも。 年上でちょっと不良ぶった彼に気に入られたいがために、内申を恐れつつも慣れない化粧で自分を偽る彼女のひたむきさも。 教育熱心な母親の圧力に神経をすり減らしつつ、睡眠時間を削って勉強に励み、本当に好きな部活ではろくに自主練習も出来ずにいる彼女の苦悩も。 理解できない。理解できない私は。 一体何を聞いて、一体何を彼女達に話しているのだろうか。 天井はぼんやりと乳白色を帯びて見えた。 目を閉じる。人の悩みを受け入れるのは、結構体力を使うものだ。抱えていた感情全てをぶつけられる。どこかで外に出さなければ、やがて本人を壊してしまうかも知れない、危険な代物。何人もの悩み。負の感情。それを受け入れるために、私は心を真っ白にする必要があった。 お陰で私の中には何も無い。ただし、誰に恨み言を言う気もない。私は、私の意思でこうしているのだから。需要と供給。「需要」、彼女達が悩みを解き放てば、また新しい彼女達が私を必要とする。彼女達が、「需要」が途切れぬ限り、私は供給し続ける。彼女達が「本当の自分」をさらけだす場所を。 「理解したい」と考える時もある。 私は以前まで彼女達と同じ位置に立っていた。自分を偽り、作り物の笑みを浮かべていた。そうしなければいけなかった。悩みを抱えていた。 けれど彼女達はいつもそうであったわけではないだろう。本当の自分で居るのは、何も私の前だけではないだろう。心から笑っている時だって、けっして少なくは無いのだろう。見ていたら、わかる。少なくとも私は彼女達に心の半分を明かされていたのだから。 では、私は? 笑う事も出来る。泣く事も。楽しい時はきっと楽しい。悲しい時はきっと悲しい。 でも、忘れてしまった。 心から笑う術を。 心から泣く術を。 「本当の自分」を。 あるいは「私の中」も、許容量をとっくに越えていたのかも知れない。 けれど、恨み言を言う気はないのだ。 私は必要とされていて、必要としている。そうありたかったから。 私は以前自分を偽っていたのだ。あるいは、 ……今も。 おわり >>top |