私の好きな場所                  

私がまだ高校生だった頃、気に入っていた場所がある。
そこは家から自転車で三十分くらいの所にあり、私の住む町の中心からはやや外れに位置している。
いつからそこへ行くようになったのかはよく覚えていないし、行くようになったきっかけも、なぜそこが好きになったのかも今となってははっきりと思い出せない。
しかし私はその場所が好きだった。
休日になると、一人で自転車を漕いで出かけた。



もう一年近く前のことになる。

その時(確か初夏の頃だったと思う)も私はいつもの如くその場所へと向かっていた。
日差しの強い日だったので、日焼け止めクリームを念入りに塗った事をよく覚えている。
いくつかの坂を越えると、鬱蒼とした杉林に覆われた、小さな山が見えて来る。
私は自転車を山のふもとの河原に停め、一休みする。適当な石を見つけて軽く砂埃を払い、腰を下ろした。身体に残る、軽い疲労感が心地良い。ここに来るまでにすっかりぬるくなってしまったペットボトルの緑茶を片手に、菓子パンを頬張る。時計は十時を指していた。
軽い食事を済ませて、川縁に降りる。手を水の中に沈ませると、冷え過ぎる程冷たかったので慌てて手を引っ込め、元の場所へと戻った。
そうして、しばらくじっとしていると、心地良い風が吹いてきた。


―やっぱり、ここは落ち着く。
木がざわざわと音を立てる。来るまでは大分暑かったが、ここは別世界のように涼しい。
私はゆっくりと目を閉じた。ほどなく意識も閉じられていった。



次に意識が戻った時には既に日は翳りかけていた。
軽く瞬きをして、時計をみると三時を少し過ぎた所だった。思ったより、私は疲れていたらしい。眠っていた場所が何故か河原ではなく森に少し近い所に一本だけある木の下になっていた。寝惚けてここまで来たのだろうか、自分の非常識さに苦笑する。
今思えば、いくらなんでも、寝惚けたままそこまで来たとは、とても信じられないが。
その時だった。
何気なく森の方へ目をやると、突然何かが動いた気がした。
何を思ったか私は反射的にその「何か」を追いかけようとした。次の瞬間には森の方へ走りだしていた。今にして思えば、その時の私の行動は異常だった。その「何か」が私を呼んでいたような気がしたー笑ってしまうが、それが正直な感想だ。
私は森の中を、黒っぽい「何か」を追って走り続けた。
体育、特に走る事に関してはからきしな私が、よくそんな山道を走り続けられたと思う。しばらく走って、息も上がってきた頃、それはようやく止まった。
私はその時やっとその[何か]をはっきりと見ることが出来た。それは常識では説明がつかないような、不思議なもの?だった。

それは人の姿をしていて、黒く艶のある髪が肩までのび、長い前髪の間から朱色の右目と、翡翠色の左目が覗いている。耳には長いピアス、服装は髪と同じ漆黒色をしていた。ここまでですでにただものではない雰囲気だが、極めつけは、その姿が全体的に透けていて、その向こうの木がうっすらと見える(!)事だった。
とんでもないものを見てしまった。まあ、何か出そうな森だとは前々から思っていたけど、まさかでくわす事になろうとは。私はしばしそれを見たまま呆然としていた。
沈黙を破ったのは、それの方だった。
「何を見ている?お前は何者だ?」
口調と低めの声から、どうやらそれ、失礼、彼が男であるらしいことがわかった。
混乱して、私は彼の質問に答える代わりに逆に問い直してしまった。
「あ、あの。あなたは一体。」
普段絶対使わない口調。
「−俺か?まあ、見ての通りだ。」
確かに彼の姿は、彼のすべてを物語っていた。私はその答えになんとなく拍子抜けした。一瞬、どうしようかと思ったのに。
意外に怖くはなかった。「幽霊」のイメージとかなりちがう。いや、それより前に彼が幽霊であることを受け入れるのに、不思議と抵抗感がなかった。
「お前は怖がらなさそうな奴に見えたから、久しぶりに姿を見せることにした。」
彼は淡々とそう言った。どうしてそう思ったんですか、と聞くと、
「河原で1人で寝られるような、危機感のない奴だからな」
そういうと彼はいたずらっぽく笑った。馬鹿にされても、私は文句が言えなかった。そういえば私を移動させたのは、もしかして?でも、幽霊が人を運べるのだろうか?
「あんな場所で寝ていたら、風邪を引くぞ。」
そう言った彼の顔には先程とは違う、優しい笑みがうかんでいた。私は少しどきっとした。




それから何故か私は彼と色々と他愛もない話をした。
外見のイメージとは違って、意外に彼と話題が噛み合わないことはほとんど無かった。いつからここに居るのかと尋ねると、もう自分でも分からない位長く居る、と言ったのに。そうしていくうち、私たちは驚くほど、打ち解けた。何故か互いの名前を聞くことはなかったけれど。初対面の人とあんなにも早く打ち解けたのは、多分あれが最初で最後だろう。彼が人と呼べるのかには疑問が残るけれど。
これは、その話の中の一部だが、一番よく覚えていること。
「そういえば、なぜお前は制服のままなんだ。学校はどうした。」
何気ない彼の言葉は、私を現実に引き戻した。そう、私は学校へ行こうとして、途中で引き返してここに来た。無断欠席だ。
何となく気分が乗らなかったのだ。それまで欠席なんてしたことはなかったし、別に大きな悩みもー受験のことを除けば、特になかったし、友人関係もそこそこうまくいっている。高校の成績は中の上。今の生活に特に不満もない。
でも、何かが、足りない気がしてー。早い話、たまには規則を破るようなことをやってみたくなっただけかもしれない。そこで、気に入った場所であるここにきて、気分転換でもしようと思った。深い意味などない、それだけだ。
ここにいると、落ち着ける。色々と面倒な現実を忘れて、ただゆっくりできる。ここにいる時間は大切だった。
私は彼に大体こんなことを話した気がする。彼はただ静かに聞いていたが、しばらくしていった。
「俺は別に責める気はないが、お前はお前の居場所を大事にした方がいい」
[居場所、ですか。]
「そうだ、お前の話を聞く限り、お前には居場所がある。不安になることなどない。最初から、なかった者とは違う。」
私には彼がその時とても寂しそうにみえた。居場所?一体、何のことだろう。私は彼の言おうとしていることがよくわからなかった。思わず聞いてしまった。
[居場所って、何のことですか?]
「お前のことを気遣い、理解してくれる者たちのいる、お前のいるべき場所のことだ。」
普通に聞いたらかなり恥ずかしい台詞だが、彼が口にすると自然な感じに聞こえた。彼の言葉には実感が籠もっていた。私は少し考えた。私には居場所がある?そんな人たち居たっけ?思いつかない。(私は冷めているのだろうか?)いまいちよくわからなくなって、考えるのをやめてしまった。
私は再び彼の方を向き、そして尋ねた。
「あなたには、居場所がないんですか。」

こんなことを聞くのは失礼かもしれない、それに、彼は見たとおりもうこの世の者ではなくなっている。
少しして、彼は静かに言った。

「生まれた時にはなかった。だが、ある女が、俺の居場所を作ってくれたんだ。」
懐かしそうにそう言った。
「それって、彼女、ですか?」
思わず聞いたが、しまったと思う。失礼だったかもしれない。
「まあ、似たようなものだ。」
彼は照れくさそうに肯定した。
別に気分を害した様子もない。
「俺はそいつを待っている。そいつが来てくれるまで俺には帰る場所が無い。」

私はその時、彼になんと言ったらいいのかわからなかった。

「きっとあいつは俺を探している。俺が死んだこともたぶんわかっていない。」
私はその時、彼になんと言ったらいいのかわからなかった。彼は深刻な事をさらっと話してしまったから。

彼には何か、もの凄く複雑な事情があって、今もこんな場所で成仏できずにいるのだろう。私が推測できるのは、せいぜいそれ位だった。
「俺の居場所を作れるのは、あいつだけなんだ。」
そう清々しく言う彼に、それでも私は、きっと同情っぽく聞こえてしまうだろうけれど。こう言った。
「きっと、来ますよ、彼女。」
それを聞いて彼はありがとう、と言った。優しく微笑んで。



漫画によくあるオチだが、そこでまた私の意識は途切れた。不思議なことに。

気がつくと私は河原の石の上で寝転んでいた。とっさに時計を見ると、もうすぐ十一時になるところだった。
「何だ、夢じゃん。」
ちょっとがっかりだ。当たり前か、幽霊なんているわけない。こんなリアルな夢を見るのも珍しいことではないし。
たいして期待もせずに森の方をみた。
しかし、一瞬だけ黒いものが見えた気がした。それから二度と見ることはなかったけれど。


帰り際、何気なく携帯を見てみると、メールと着信履歴で一杯になっていた。
「どうしたの・風邪?平気?」
みんな似たようなことが書いてある。私は少し笑った。

その日は午後から学校へ行った。


次の休みにまた私は森に行ってみたが、一日中そこにいても彼には逢えなかった。
あの時逢えたのは、彼のきまぐれだったのかも知れない。

あんな寂しい場所にずっと1人でいたのだ。私に何か感じることあって、姿を現したのかもしれない。今となってはもう確かめる術も無いが。もう、彼には逢えないだろう。

それから無事大学生になった今まで、私は一度もあの場所へ行っていない。
もう、行く必要はなくなったから。


彼は彼女に逢えたのだろうか?
彼を思い出すとき、それだけはいつも気になっていたけれど。
彼女に逢える日まで、彼はきっと待ち続けているのだろう。


早く、来るといいね。彼には聞こえないけれど私はそう思った。

おわり

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