ぱぁん。
明るい白の光が、ものすごい勢いで通過していった。 それまで見えていた蒼い空も、灰色のコンクリートの地面も、みんな白い絵の具で塗りたくったように色を失った。
ぱぁん。
「私」は跳ね飛ばされた。次の瞬間には重力に引き寄せられるまま、地面に叩きつけられた。 ―ええ?これで終わりなの?
「私」は思った。これで終わりなのだと思った。
声にならない叫びが頭の中で木霊した。 ―仕方ないよ!
それでも私は生きている。
「もうだめっぽい〜もう無理っぽい〜もうさようならっぽい〜」
駅構内に響くメロディが、憂鬱感に拍車をかけるように、歌詞つきで流れているような気がした。 噂によれば、このメロディを聞いて自殺衝動に駆られる人もいるのだとか。妙に納得した。
桐井美鈴(きりい・みすず)、は、駅に滑り込んできた電車の扉が開くのを待って足を踏み出した。 「危ないですから〜黄色い線の内側に下がってお待ちください〜」
駅員の注意を呼びかける声もむなしく、黄色い線の外側を電車が走る距離すれすれで歩いている人間、数人。くたびれた感じのサラリーマン、女子大生風、ホスト風、 などなど。時には本当に巻き込まれて命を落とす人もいるのかもしれない。
「………」
美鈴はMDプレーヤーのスイッチをオンにした。アイポッドが流行のご時勢にMD使いで通しているのは、アナログ派人間を気取っているわけでもなく、 壊れない限り使っていればいいと思った。ただそれだけのことであった。
神埼ユミの曲が始まった。神崎ユミは若い女性を中心にカリスマ的な人気を誇る女性アーティストで、その歌詞は独特の個性を持って多くの人を惹きつけた。美鈴もその中の 一人に過ぎなかった。コンサートにこそ行かないものの、彼女がデビューした頃からのアルバムは全て持っている。
MDに録音されていたのは、神崎ユミの最新アルバムに収録されていた新曲だった。どこか憂鬱で悲しげな旋律。今の自分の心境にぴったりだと美鈴は思った。
美鈴は都内の大学を卒業後、就職した会社を僅か二ヶ月でドロップ・アウトし、以降はアルバイトを三回変え、ちょうど二年ほど経った現在では派遣社員として勤めている。 同年代の友人たちは社会人として成熟していく途上にある中で、自分は社会人経験を上手く積んでいくことができない。コンプレックスを抱えていた。
仕事が続かない理由は分からない。ある日突然、その日はやってくる。すなわち「もうだめっぽい」瞬間である。
会社の最寄の駅から家までは約二時間と遠く離れている。それでも都心の会社を選んだのにはわけがある。
美鈴は地元が好きではなかった。
「次はK〜K〜」
憂鬱な気分になる。MDのスイッチをオフにした。神崎ユミの声が途絶えた。開いた扉の向こう、ホームへと足を踏み出す。今日も、仕事だ。
美鈴の派遣先は都心に程近い大手の商社だった。そこで一般事務の仕事をしている。事務の仕事は非常に単調な作業の繰り返しだ。印鑑を押し、 パソコンのキーボードを叩く。眠気がこみ上げてくる。会社から無料で支給される玄米茶を汲みに行く足も重い。
「桐井さん、もうちょっとペース上げて仕事してね。それじゃないと間に合わないからね」
課長は極力優しい声を出しているのだろう。美鈴は「はい、すみません」と答えた。派遣社員は即戦力が求められる。 その中で美鈴はアルバイトで事務の基礎を齧ったくらいで、所謂職場の「お荷物」と化していた。
ここは決して派遣社員がくつろげる職場ではない。美鈴が入社した当初にいた派遣社員は六人から半分の三人(美鈴を含め)に減っていた。
神埼ユミの声が聴こえた。もちろん、就業中の今MDをかけているわけではないのだが、美鈴には彼女の声が聴こえた。彼女は言っていた。
「あなたには大切な人がいるはず。だから負けないで。思い出して」
大切な人。
美鈴は昼休みのチャイムが鳴ると同時に、バッグから携帯電話を取り出した。複数の迷惑メールに混じって、一件、普通のメールが入っていた。 件名「おーい。大丈夫かい」
「日記見たけど、何かあったのか。もし何かあったのなら話聞くぞ。言ってくれ。」
恋人の織田啓介(おだ・けいすけ)からのメールだった。
その場では返信をしない。なかなかその気になれない。男に気を持たせるためだとか、焦らすためだとか、そういった駆け引きの気持ちではない。
ただ、何となく時間を置いてみたいと思う。
美鈴はホームページを運営していて、そこで日記を書いていた。所謂ブログというものである。そこに昨日の夜、美鈴はこう書いた。
「もう職場がつらいです。もう駄目です。さようならしたいです。全てに」
読んだ人間は一瞬ぎょっとするだろう。 しかしこれが初めてのことではなく、美鈴は頻繁にこうした後ろ向きな発言を日記として公開していた。中には苛立ちを覚える者もいるだろう。抗議されたこともあった。
啓介は画面の向こうで何を思ったのだろう。
美鈴はため息をついた。全てにさようならしたいです、と自分は書いた。しかし、本当に自分はそう思っているのだろうか。
「さようならしたいです。」
冷たい言葉。それは確かに、昨日自分が書いた言葉。
「さようならしたい」気持ちは本当だったが、本当ではない。現にこうして、生きている。
家に帰り次第日記を直そう。 そう思いつつ、携帯のディスプレイを閉じた。
つづく 戻
| |