「幸人」
 ゆきひと。

 俺を呼ぶ声が遠くで聞こえた。
 胸がきりきりと、締め付けられるように痛んだ。そこの内側から何か灼けるような熱さを感じた。

 俺はずっと待っていた。
 苦しくて、
 息も絶え絶えになりながら。
 それでもずっと、ずっと待っていたんだ。
 俺を迎えに来てくれる人を。

 カズカが潤んだ瞳で俺を見詰めていた。
 深い深い琥珀色をした瞳で。
 「…思い出したのね?」
 柔らかな枕にふわりと頭が沈む。
 カズカの瞳を俺はじっと見詰めた。
 「…あぁ」

 思い出したよ。



 あの日はとても暑い日だった。
 蝉の鳴く声。
 ぎらぎらと照りつける日差し。
 汗がたらたらと頬を伝い、夏服のシャツを身に着けていることすら鬱陶しく感じた、あの日。

 普段住む都会を離れて、故郷に帰るのは夏休みしかできないことだった。
 高校三年生の夏休み。俺は一人で電車に乗っていた。小遣いだけは年齢不相応に貰っていて、交通費には困らなかった。
 仕事だといって何日も屋敷を空ける父親には内緒で。あとで何かうるさく言われて、しまいには殴られることになったとしても構わなかった。俺は俺のやりたいようにやる。それだけだった。

 数年ぶりに帰った故郷は以前とほとんど変わっていなかった。
 暑いのは同じ。
 毎年開催される夏祭りの準備をしている、町内会の人たちを横目に俺は元住んでいた家を目指した。近所づきあいに熱心だった祖母が死んでしまってからも町内の人たちは俺に会うたび挨拶したが、俺はせっかく声をかけてもらっても満足に挨拶できない可愛げのない子供だった。

 うっとうしいわけではなかったが、かといって関わり合いになるのも面倒だった。今も顔を見れば思い出してくれるひとはいたかもしれないが、俺のその後のことを詳しく話すのがわずらわしかったから、なるべく人目につかない道を選んで歩いた。

 夏祭りを見ると母を思い出す。
 小さい頃、一度だけ連れて行ってもらって。
 一緒にかき氷を食べた。
 栗毛をゆるく後ろで束ねた母の優しい笑顔。
 何年たっても忘れられなかった。その母は、俺を父の元に置き去りにしたまま姿を消した。俺は母に捨てられた。

 嫌な思い出しか残っていないはずの故郷。
 それでもどうしても忘れられない。母の思い出と、祖母の思い出と一緒に。

 手付かずで残された家は、今は誰もいないようだ。けれど俺の持っている鍵で開けられた。ここは今は母の持ち物になっているのだろうか。

 篭った空気と立ち込めた熱気で一瞬ふらつきそうになった。靴を脱いで上がった。

 祖母の仏壇に手を合わせてから、部屋を見渡した。ほとんどの家具が運び出されて、部屋はひどく殺風景だったが、ひとつだけ、大きな箪笥が部屋の隅に置かれていた。傷だらけのそれは、赤と焦げ茶を混ぜて割ったような色をしていた。

 俺は引き寄せられるように、その箪笥に近づいた。一番上の引き出しを、そっと開けた。
 中には埃が溜まっていて、僅かに俺は咳き込んだ。折り紙といくつかの硝子球が入っていた。ころころと音を立てた。
 俺はその引き出しを閉め、続いてその下の引き出しを開けた。

 写真が入っていた。
 栗毛を三つ編みにしたセーラー服の女学生と、黒い学生服を着た男子生徒が微笑んでいた。年は十四、五といったところだっただろうか。

 学生服の男子は、俺にそっくりだった。

 蝉の鳴き声が耳につく。
 たらり、と冷たい汗が頬を伝っていく。

 「…お母さん」

 俺は呟いていた。目元が熱くなって、気がつけば、泣いていた。
 栗毛の少女は、年こそかなり若いけれど―、あの日別れた、母だった。母に間違いは無かった。優しい、黒目がちの瞳は穏やかに細められている。
 俺は目を見開いた。

 写真に写っていた女の人が、頭から水を浴びせかけられたように血の気を失った顔をして、そこに立っていた。

「ユキヒト…」
 紅い口唇から、深い溜息にも似たような声が漏れた。


 この人は誰なんだ?

 ざわざわと胸が不快感を訴えた。俺はこみ上げてくる吐き気を抑えきれなくなった。



「あなたのお父さんよ」

「あなたは、あなたのお兄さんーということになっていた―栗山行人(くりやま・ゆきひと)と私の間に生まれた子どもなの」


 俺は、捨てられてから、母とは一度も会っていない。それは俺の思い込み。俺は母と会っていたのだ。ただ、それを認めたくなくて。

「幸人…」
 
 母が手を伸ばす。鳥肌が立つような気がした。

 あんたなんか母さんじゃない。頭が割れそうだ。違う。俺はもうあんたを母さんだ何て思ってない。あんたは俺を父さんに売ったんじゃないか。

 「行人さえ生きていたら。…お前は、何故こうも私の思うとおりに育ってくれないのか…」
 通知表を拡げて頭を抱えたあいつも、俺は父さんだなんて思っていない。


 行人。
 あんたさえ生きていればよかったんだ。
 あんたは、愛されているんだから。

「あの人は行ってしまったわ。だから私はあなたにこうつけた。行人のように行ってしまわないように。幸せになるように」

 母の目に映っているのは、俺じゃない。

「あなたを愛してるわ。とても。幸せになって欲しいと、思っているわ」

 嘘だ。

 俺がそんなに誰かに似ているわけがない。
 母さんの弟にも、兄さんにも。
 そう見えたのは、みんながもう死んだ人たちの亡霊に縋ってるからだ。

 俺は誰の代わりにもなりたくなかった。
 じゃあ俺は一体何なんだ。
 他人の幻影しか纏っていない俺は、一体何なんだ。

「…触るな」
「…幸人?」
 母が、目を丸くして、拒絶の言葉を吐いた俺を見詰めていた。俺は母の腕を振り解いた。
走り出したとき、胸が締め付けられるように痛んだ。

「ユキヒト!」

 母さんー佐伯和佳(さえき・かずか)の絹を裂くみたいなか細い声が後ろで聞こえた。
 母さん。
 俺は結局何だったんだ?母さんにとって。

 胸は断続的に痛みを訴えていた。
 頭がふらふらとして、方向感覚が曖昧になって、地面が空に、空が地面に見えた。
 

 しばらく走ったような気がしたが、俺はやがて力尽きて倒れた。

 こげ茶色の空。
 青い絵の具で塗りつぶしたみたいな地面。
 俺は、ふっ、と自分の身体が宙に浮くような、ひどく不安定な気分を味わった。
 色彩は消えた。
 青い空も、
 こげ茶色の地面も。
 色を失って、ただ、モノクロの風景に溶け込んだ。


 俺は倒れていた。
 青い空の下、ひとりで地面に横たわっていた。
 瞼が重い。息も詰まるし、何より胸が―苦しい。冷たい氷の刃が、胸に差し込まれるような感じ。

 四肢を投げ出し、俺は何かを待っていた。

 母さん。
 …どうして、何も言ってくれないんだ。

 俺の本当の父親―行人は、心臓の病で亡くなったのだという。
 それまでは本当に、元気だったのに。

 不愉快だった。死に方まで、同じだ何て。
 母がこんな俺を見てー何て言うのか、聞きたかった。同じ名前の、多分に同じ顔の男の死を二度までも目にして、母さんは何を思うんだろう。

胸が苦しかった。
それでも俺は、待っていた。
死んだら、負けだと思った。

俺にとってたったひとりの母さんが、たったひとりの息子であるはずの俺を迎えに来てくれるのを、待っていた。

モノクロの、世界の中で。





  「私は貴方を忘れようとしたわ。でもできなかったのよ」

 「俺は母さんが嫌いだった」
 「嘘」

 「貴方は私の姿を望んだわ」
カズカは、潤みがちな漆黒の瞳を俺に向けていた。十四、五歳。栗毛の女の子。


 「お母さんが一番望んだのはーやっぱりあなただったのよ」
 「目を背けて、逃げだして。…でもお母さんはやっぱりあなたを想っていた」

 「…あれを見て」

 母が居た。
 いくらかやつれたーカズカの姿。
 その隣りには「ユキヒト」が居た。
 それは鏡に映したみたいに俺にそっくりで。いや、俺そのもので。

 「あれは―行人じゃないのか」
 「ううん。幸人だよ」
 「貴方のお母さんも、他の誰でもない、あなたを望んだのよ」

 「あなたが居なければ、生きられなかった。…離れていても、あなたが居たからこそ、お母さんは生きていられたの」
 「どうして、お前にそんなことがわかるんだ」
 「だって私は、お母さんの記憶も貰っているんだもの。私はカズカであり、和佳」
 カズカは微笑んだ。

 「行きましょう。…幸人」
 カズカはぎゅっと俺を抱きしめた。
 俺はカズカに抱きしめられたまま、頷いた。
 「もう、置いていかないで」

 光の洪水が、目の前に広がっていた。
 モノクロの世界が、洗い流されるみたいに色を取り戻していく。

 目の前で、無数の人たちが光に飲み込まれていった。ある者は二人、ある者は三人、ある者は四人で一緒にその光に融けた。

 俺は俺だけのために生まれたカズカと一緒に、「和佳」のためだけに生まれた「ユキヒト」が二人一緒に光の中に融けていくのを見た。

 間もなく俺の意識もー溶けた。
 最後まで残っていたのは、苦痛にとって変わった、胸の中に広がる安堵と、不思議な温かさだった。

 おわり

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