「…まだ痛い?
「ああ。もうそこは大丈夫だ」
俺がここに来てからどれ位の時間が流れたのだろうか。
窓の向こうで何度も陽が昇っては落ちた。

つい数日前までひりひり痛んでいた左足の包帯をカズカがゆっくりと解いていく。
「ほんとだ。…もう治ってるね」
安心したように笑む。
この傷が治るまでは、カズカがこまめに濡らしたタオルを当てて冷やしてくれていた。
最初のうちは傷の痛みの所為でほとんどベッドから動く事すら出来なかったのだが、傷が癒えていくにつれ、随分と身体の自由も利く様になり、カズカの手を煩わせる割合も少なくなった。

「もうすぐ、全部の記憶が戻るね」
カズカが真摯な面持ちで言ったのに、俺はあぁ、と頷いた。
傷の治癒は同時に記憶の回復を意味していた。
生前の俺の記憶。
そのほとんどは、俺にとって喜ばしいものではなかった。

あの日、母親の胎内に居た俺に対し「堕ろせ」と言い放った男―、俺の父親は、それなりに裕福な家の主人だった。父が持っていた田舎の別荘の一つで働いていて、父を迎えた母とは随分と年が離れていた上、父は母以外に既に配偶者が居て、息子も一人居た。ほんの気まぐれで母と関係を持った父は、妻や世間体のほうが大事だった。母は父に逆らって俺を産み、仕事を辞めて父の手の届かない田舎の実家へと戻った。

―それは、随分と後になって母以外の人から聞いたことだが。

母との温かい思い出もほとんどない。覚えているのはほんの幼い時に小さな祭に連れて行ってもらい、かき氷を一緒に食べた事。

母の実家には祖母が居て、また新しい仕事を見つけて出て行ってしまった母の代わりに俺の面倒を見てくれた。
「お前は死んでしまったあの子の弟に似ているよ」
祖母は折を見てはそう言って、皺くちゃの顔を歪ませておいおいと泣いた。

やがて俺が十三歳の誕生日を迎えて間もなく、祖母は亡くなった。身内は母と俺だけ。しかも母は死に際に間に合わず、俺だけが彼女の死を見届けた。俺の顔を見て、祖母はちょうど同じ年くらいに事故で亡くなった母の弟の名前を呼んだ。
そして静かに息をひきとった。

祖母が死んでしまってから、俺はひとりきりになった。学校には行っていたが、なんとなく馴染めなかった。
つまらない日々に嫌気がさした頃、ろくに家に寄り付かなかった母が戻って来た。
「お前のお父さんに会いに行くのよ」
母は俺を連れて電車に乗った。
着いた先は今まで居たところとは比べ物にならない都会。

今まで居たところとは比べ物にならない位、大きな屋敷に母と俺は入った。

「よく来たな」
祖母とさして年の変わらないであろう、白髪の老人が出迎えた。俺の「父親」だった。

「この子をよろしくお願いします」
母は丁寧に老人に頭を下げて出て行った。
不思議にその日の母は、やつれ切っていた以前とは違って髪も染め、身につけている服もどこか高級そうで、垢抜けて見えた。それが俺の見た母の最後の姿。

それきり、母とは一度も会っていない。
事情はこうだ。
俺の年の離れた異母兄が、心臓の発作で突然死んだ。父の周りには後継ぎとして相応しい身内が居なかった。そこで以前捨てた筈の俺の存在を思い出したらしい。
「頼れるのはお前だけだ」
父は俺の服の裾を掴んでむせび泣いた。



「結局皆、俺を誰かの代わりにしてたんだ」
俺はそう吐き捨てる様に言った。カズカに当り散らしても仕方のない事ではあったのだが。
「たくさんだ。俺は俺であって、他の誰かじゃない。母さんの弟でも、兄貴でもないんだ」
カズカは俺を黙って見詰めていた。
「苦しかったんだよ。―誰も俺を見てくれない、俺は一体どうしたらいいかわからなかったんだ…」
ぎゅっとシーツに爪を立てた。
最後の、母に置いていかれた記憶を取り戻した時は、耐え切れなくなって涙を零した。
あの時泣けなかった。その分が、捌け口を求めて溢れ出したという感じだった。
「…辛かったね」

カズカは俺の背中をそっと撫でた。それから、強く抱きしめた。
「でも少なくとも今、私はちゃんと貴方を見てるよ。私は貴方を治すために作られたんだから。だから、貴方だけ見てるよ」
カズカの柔らかい栗毛が頬をくすぐった。
ふわりと優しい感触。…ひどく落ち着けるような。

「…カズカ」
「ん?」
「…もうほとんど俺の記憶は戻ったって言ってたな。…でも俺、まだ肝心な事忘れてる気がするんだ」
「…肝心な事?」
カズカは俺を見上げ、大きな瞳を更に大きくした。
最初ここに来た時―あたりはモノクロ写真の様に色がなかった。だが今は違う。
カズカの瞳の色を除いては―全ての風景に、色が着いていた。
俺は少し意識して、抑えた調子の声で、言った。

「例えば、俺の名前」
そう口にした途端、カズカの優しかった表情が曇った。
「どうしても俺、自分の名前思い出せないんだ。…俺の名前、何て云うんだ?」
俺の名前。
記憶の中の人々は皆俺の名を呼んでいるようだったが、そこだけノイズがかかったようになって、思い出せなかった。
「…それから」
答えないカズカに、俺は続けた。
「カズカに昔、どこかで会ってたような気がするんだ。…気のせいじゃない、きっと」

ここに来た時から感じていた事。
俺はカズカに会った事があるような気がする。カズカと居ると、不思議な懐かしさを感じる。思い出したくもない記憶の数々の中、俺はまだ、大事な記憶を取り戻して居ない様な気がした。

記憶が戻るたびに癒された傷。
今では傷も痛みもほとんど残っては居ない。けれど、最後に残った傷。俺はその傷にそっと左手で触れた。ずきずきと痛みを訴える。それは、左胸の内側から響く痛み。
「カズカ?」
黙りこくったままのカズカの様子がおかしいのに気付いて、俺はカズカの顔を覗き込んだ。カズカが躊躇うのは、大抵俺が傷つくような記憶が戻る時だ。胸の傷は深いようだった。恐らくは、今までで一番ひどい傷。
「―その傷」
カズカはそっと手を伸ばした。
「その傷を治す時、一緒に記憶を戻す、その時は」
傷を押さえた俺の手に、カズカはそっと自分の手を重ねた。
「貴方が知りたがってる答えがわかるよ。でも」

それが最後。
その記憶が戻る時は。
カズカはどこか切なそうな顔をして、言った。
「貴方が天国を目指す時だよ。」




カズカはその日の夜、俺の寝ているベッドの中に、自分も潜りこんで来た。
「…おい」
「何?」
「何で入って来るんだ」
「…駄目?」
「駄目とか、そういう問題じゃなくて…」
カズカがこんな行動に出たのは初めての事だった。

大抵いつも俺が寝付くまでずっとベッドの脇に座って、色々な話をしてくれた。なぜか、目が覚めるとその内容は忘れてしまっているのだが、とにかく、俺が起きている間はカズカは決して眠るような事はなかった。俺はカズカの寝顔というものを見た事がなかった。
…それが。
「貴方のそばにいたいの」
カズカが顔を上げ、じっと俺を見詰めてくる。色のない瞳。しかしそれがかえって悲壮感を漂わせているようにも見えた。
妙に胸が高鳴って、そしてぎゅっと締めつけられる様に痛んだ。
「…カズカ」
もう俺は拒まなかった。
いや、最初から…拒んでいる訳では無かったのだが。

やわらかい毛布の中で、カズカの背中に手を回して抱きしめた。カズカの身体は温かかったけれど、ひどく細くて、頼りなげだった。

カズカが俺を抱きしめてくれるのは珍しい事ではなかったが、俺からこうしてカズカを抱きしめると言う事は今まで無かった気がする。たいした違いではないのかも知れないが―また、懐かしさが込み上げた。俺はこの感じを知っている。
「カズカ」
「―え?」
「カズカは、俺が天国に辿り着いた後、どうなるんだ?」
以前から聞きたかった事。
カズカは俺のためのオーダーメイドで生まれたと言った。俺にとって最も相性の良い存在として。
それでは癒すべき対象の俺が消えてしまった後、カズカはどうなるんだろう。

「―消えるよ」
カズカは俺にしがみつくようにして、言った。
「―消える?」
さすがに驚いた俺が聞き返すと、カズカは少し震えたようだった。
「正確に言えば、リセットされるの。…顔も、声も、性別も、記憶も、全部洗い流されて、全く別の誰かの為に作り変えられる」
カズカは俺の服をぎゅっと掴んだ。
「…怖くないのか」
「今まで、ずっとそうだったもん。…前、どんな人の傍に居たかも、もうわからないけど」
カズカは顔を上げて俺を見た。何だかその顔がひどく幼いものに見えた。
「…どうしたんだ。そんな顔をして」
「…怖くないと思ってた」
モノクロの瞳が揺れる。
カズカは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「もうすぐ、だよ。もうすぐあなたの記憶は全部戻る。そうしたらここを離れる事になる。…天国に着くまではずっと私は貴方といっしょに居る。でも、今は怖いの」
カズカの声が震えた。
「離れたくないよ」
小さな声だった。
ゆきひと
「幸人と一緒に居たい。ずっと」

俺は少し驚いた。
「…ユキヒト?」
口に出して呟いてみると、ずきんと胸が痛んだ。
「…それが俺の名前か?」
カズカは答えなかった。
だんだんカズカは最初の様に俺にはっきりとした答えを与えてくれなくなってきた。

カズカは俺の隣で眠った。
初めて見る、カズカの寝顔。
だがやはりどこか懐かしい。
その顔を見ていると、だんだんと眠気が込み上げてきた。

今夜見る夢が、最後の記憶。
カズカは眠りに就く前にそう言った。
聞き返した俺に、それ以上答える事はしなかった。


つづく

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