夢を見た。

生暖かい場所。
柔らかい何かに俺は包まれていた。
周りは暗かった。
手をのばした。
柔らかい壁に触れた。

何か音がしている。
どくんどくんという音。
何の音なんだろう。
耳を澄ませた。
別の音が、聞こえてきた。

「…しまえ」
?これは、声か?
よく聞き取れなかった。

もう一度、耳を澄ませた。

「堕ろしてしまえ」

今度は、はっきりと聞えた。
低い男の声。
俺は、何も覚えていなかった訳ではないらしい。
その単語の意味が、すぐにわかったのだから。
わからなくてもよかったのに。


思い出した。
それは俺の最初の記憶。
ああ、俺はもう随分と昔に、こう言われたんだ。
「堕ろしてしまえ」
もう一度大きく、その声が頭の中で響いた。

そこで目が覚めた。
ゆっくりと瞬きをして、傍らを見ると、
眠る前と同じ位置にカズカが座っていた。
俺は少し驚いた。

色が、ついている。

カズカの髪。
淡い栗色をしていた。
だが、色がついていたのはそのカズカの髪だけで、あとの風景は相変わらず、白いままだった。
輪郭は鉛筆で書き殴った様にぼんやりとしている。
「おはよう。大丈夫?」
カズカが少し穏やかな調子でそう言い、俺の額に手をそっと乗せた。
ああ、少し汗をかいている気がした。
ひやりとしたカズカの手の感触が、熱かった肌に馴染んで心地良い。
「最初の思い出があんななんて、悲しいね」
「…お前も、見たのか?」
「うん。これからもずっと」
カズカが俺の左手をとった。
俺はまた驚いた。
傷が。
そこにあったはずの傷が、消えていた。
左手に刻まれていた傷のひとつが。
「これから、記憶を少しづつ戻していくね。その度に、景色にも色がつくし、その時負った心の傷を克服したら、今身体にある傷も治るから」
カズカは俺をまっすぐ見ていた。
髪の色だけが鮮明というのはどうにも違和感があるのだが。
カズカの淡い栗毛は美しかった。
カズカは、俺の手を優しく握ったまま続けた。
「私もあなたと一緒に、あなたの記憶の夢を見る。それから、あなたが心の傷を克服するのを手伝うの。と言っても、今は起きた時そばにいた、ってだけなんだけど」
「………」
傍に、居ただけ。
些細な事ではあるかも知れない。
けれど。
さっき、目が覚めた時。
とっさに、誰か居ないかと視線を動かした先に、カズカが居るとわかった時。
とても安心した様な気がした。
それがとても有難い事に思えた。

あの時、
自分の存在を否定する様な意味の言葉をかけられたのだと、どうしてかわかってしまった過去の自分は。
不安で、堪らなくて。
ひどく傷ついていたのだろう。

あの時の自分は、誰かに傍に居て欲しかったのだ。
その思いが、今漸く叶えられた。
カズカのおかげで、俺の傷は治った。

―そういえば。
あの言葉を言ったのは、誰だっただろうか。
思い出せそうで、思い出せなかった。

カズカなら、知っているだろうか。

「…さっきの男は?」
「…え?」
「さっきの男、俺とどんな関係があったのか。教えてくれないか?」

カズカはちょっと顔を強張らせた。
「それは…」

カズカが言葉を濁す意味はなんとなくわかった。
きっと、それを知れば俺が傷つくのだと思っているのだ。

「俺は大丈夫だから。教えてくれ。頼む」
いったん気になりだした事をうやむやにしておくのは何だか嫌だった。
たとえいくら残酷な答えが待っていても。
カズカは躊躇うように視線を俺から外して、言った。

「あなたの、お父さん」
「…そうか」

カズカの答えを聞いた時、自分でも驚く程、落ち着いていた。
普通はもっと傷つくものなのだろうが。
その答えに納得している自分がいた。
やはり少しは覚えていた様だ。
そんな風に考えていると、カズカが心配そうに俺を見つめていたのに気付いた。

「…心配するな。別に、気にしてない」
「………」
「全部忘れたと思ってたが、ああいう言い方をされた様な覚えは、不思議とあるんだ」
事実だった。
あの声で何度も怒鳴りつけられた事が、きっと過去にあった。
「俺が生きている時、どんな環境に居たのかはやっぱり思い出せないんだが」
カズカは黙ってじっと俺の話を聞いていた。
俺はカズカから視線を外して、続けた。
「少なくとも、父親には嫌われてたみたいだな、どうしてかは知らないが」
少し自嘲気味な物言いになってしまったかも知れない。

カズカは黙ったままだった。
俺もそれ以上何も言わなかった。

暫しの沈黙の後、
先に口を開いたのは、カズカだった。

「…生まれる前の事だもん、あなたのせいじゃないわ」
カズカはそう静かに言った。
カズカの言葉を聞くとほぼ同時に、

左手の甲の痛みが消えた。
情けないことだが。
今の俺はカズカが何か自分を肯定する様な言葉をかけてくれるのを期待していた。

カズカは、その期待に応えてくれた。
それは今の俺にとって、とても嬉しい事だった。

「…ありがとう」

俺がそう言うと、カズカはちょっとだけ驚いた様な顔をした。

「どうしたんだ?」
「ううん、やっと笑ってくれたな、って」
「そんなに、珍しい事か?」
「…だって、ここに来てからずっと、あなたすごく寂しそうな顔してたもん」

…そうだったのか。
自分では、意識していなかったけれど。
「笑った顔の方が、可愛いよ」
カズカは嬉しそうに言った。
「…男が可愛いって言われても、嬉しくないぞ」
「あ、そっか。ごめん」

謝った割に、カズカは少しも済まなそうな様子は無かった。
相変わらず、嬉しそうな笑顔だった。
俺も別にそう言われて悪い気持ちはしなかった。
ただ、思ったのは。
「可愛い」と言う言葉は、きっとカズカの笑顔にこそ当てはまるような言葉だと言う事。

胸に何だか温かいものが広がっていくのを感じた。
カズカに対する気持ち。
自分の傷を治してくれる為に生まれたという、彼女に対する気持ちが、俺の胸を満たした。
そんな温かい気持ちを以前にも感じた事があった様な気がした。
一体、いつのことだっただろうか。
思い出せない。
けれど。
今は、ただ。
カズカが居てくれるのなら、残りの傷もきっとすぐに治せるだろう。
そう、思っていた。

つづく

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